住職ごあいさつ

法要・供養を語る

徧照寺は慶長二年(西暦1597年)にまで遡ります。筑前国糟屋郡立花城の家臣 藤崎源右ヱ門が浄土真宗(本願他力)に帰依し、武士を捨てて、遠賀郡竹並の地に一宇の草庵(神宮山天照寺)を結んだことを創始とします。
明治政府の命により、明治6年頃 神宮山天照寺より光明山に名を改めました。現在の本堂は明治39年(1906年)有縁の方々の深い願い(愛山護法)から、現本堂建立の発願がなされ、明治42年(1909年)に建立されました。
正法弘通・念仏聞法(阿弥陀さまの本願を聞き開く)の道場として多くの方々から受け継がれて、平成に生きる私たちが、「念仏の声を世界に子や孫に」と、子々孫々、念仏に包まれた幸せな日々を送ることができますよう願っております。
徧照寺は親鸞聖人を開祖とする浄土真宗本願寺派に籍を置き、本山は西本願寺です。現在の住職で第15代となります。

宗教法人 徧照寺
第15世住職 藤﨑 功良

六地蔵尊

法要(ほうよう)とは

法要

日本では、しだいに供養(追善供養)のことを指すようになり、その後一般的に死者を弔う儀式をさすようになった。法事(ほうじ)、仏事ともいう。また死者を弔う儀式以外に、仏像(入仏式)や墓(建碑式)の世間でいう開眼などの慶事も含みます。

また浄土真宗では、ただ亡くなられた方を追悼するだけが目的ではありません。昔から、亡くして初めて親の恩を知るといわれます。生きているうちは分からなくても、親を失った時、まじめな人なら必ず、不孝を重ねた後悔が起きるものです。大切な伴侶や愛児を亡くした時も、様々な悔恨に襲われ、悲嘆に沈むことでしょう。

墓に布団も着せられず、遺骨にごちそうも食べさせられず、どうしたらこの心、相済むことかと思い悩むのは当然です。「立派な葬式や法事を勤めるしか、このやりきれぬ気持ちを静める方法はない」と思われがちですが、親鸞聖人は決して、そうは教えられていないのです。

親や先祖の恩に報いようとするならば、親の最も喜ぶことは何か、先祖の最も望むことは何かをよく知らねばなりません。それはあえて亡くなった人を呼び出すまでもなく、私たちが子供や家族に何を望んでいるかを考えれば分かります。「正しく生きて幸せになってほしい」。これに尽きるのではないでしょうか。
お釈迦さまは、それには本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞信する一本道しかないと教えていかれまし。阿弥陀仏の救いにあい、永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ、明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、先に亡くなられた方の最も喜ばれることになるのです。

供養(くよう)とは

供養

供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはプージャナーの訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。

日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。また動物等に対する供養、さらには針供養のように生き物でない道具等に対する供養もあります。

仏教では、相手の人格を無視したり見下すことを「殺生」と言います。逆に相手を敬い尊敬することを「供養」と言います。「殺生すれば地獄、供養すれば浄土」というのは単に死後の問題ではありません。
現実に地獄を作り出していくのか、浄土のはたらきに随順していくのか、常に私たちに突きつけられている問いなのです。そして「地獄を見た者こそ地獄を作る業を離れ、浄土を求め、その創造のはたらきに参入して欲しい」という願いが阿弥陀如来の本願なのです。

「供養」には、財と法の二種類があり、飲食・衣服・臥具・湯薬の「四事供養」に代表される金品の供養と、恭敬供養・讃歎供養・礼拝供養という精神的崇敬の供養ですが、どちらも尊く大切な宗教儀礼ですので、そのために仏壇を求めてご本尊を安置すること・墓を作るということは、決して間違いではありません。しかし、今日問題にされているのは、そうした「供養」が、目的ではなく手段に使われていることではないでしょうか。つまり「追善供養」のように、供養することで何かを得る、いわば「取引」になる懸念です。

「宗教は目的」ということは「そのこと自体が本質である」ということ、つまり、供養も念仏も、その行為の後に何かを期待するのではなく、供養すること自体に、念仏すること自体に、いのちの尊さに目覚め、生きる喜びを見出していく。生きる方向性を見出していくことが肝要と思われます。

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